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【年末特別企画】#後輩へ託す想い 人生いろいろ第123回 東京五輪ランナー 横溝三郎氏 

今年創部100周年を迎える中大陸上競技部。箱根駅伝まで残り3日と迫っている。箱根号製作にあたり、毎号様々な場所でご活躍されているOB・OGを訪ねる「人生いろいろ」にて、東京国際大学駅伝部総監督の横溝三郎氏(81)から中大生へメッセージを頂いた。今回は紙面に載せきれなかった内容を、WEBにて掲載いたします。

◆横溝三郎氏プロフィール
よこみぞ・さぶろう 昭和14年12月9日生 法学部卒
箱根駅伝に4年連続で出場し、中心選手として中大の六連覇に貢献。卒業後に1964年の東京五輪に3000m障害で出場した。選手引退後は、解説者、指導者として活躍。現在は東京国際大学駅伝部の総監督を務める。

――陸上をはじめたきっかけ

「私の兄が横浜市役所に勤務していて、陸上部として認められたところではないですが、好きで走ってたことです。もうひとつ、当時私の中学に日体大の選手の関根忠則さんが来てくれて教えてくれました。当初運動に携わったのはバスケットで、駅伝は流行り始めていたんです。バスケットで長い距離を走れる子がいるからということで駅伝に駆り出されたのがきっかけです。中学時代はあくまでもバスケットがメインで、バスケットっていうのはバネの必要とする種目で、最終的にオリンピックで出場した3000㍍障害につながります。本来なら上背があると有利なのですが、165㌢なのでかなり負担がかかるんです。バスケットで鍛えたそのバネが自分の天性を引き出してくれて、最終的にオリンピックに出場できたんですね」

――横浜高校時代、インターハイ5000mで優勝していますが当時の練習はどんな感じでしたか

「松坂(大輔・現西武ライオンズ)が出た学校で野球に関してはすごい恵まれたところなのですが、陸上に関しては一周150㍍しかなくて山の上にあって、我々が入部した時には、コーナーが競輪の勾配みたいな、体が遠心力で弾き出されるようなグラウンドでした。傾斜を作って外に体が流されないように工夫したりして、結構練習では苦労しましたね」

高校時代にジュニア世界記録樹立
中大へ入学

――中大に入学したきっかけ

「はじめは新聞記者をめざしていたんです。家庭的に恵まれていなくて、大学まで行けるだけのゆとりがなかったものですから。就職するなら新聞記者、それもスポーツ新聞だねって早いうちから言われていたんです。そうこうしているうちに高校時代にジュニア世界記録を出したんですね。そのときに村社講平さん、ベルリンオリンピック5000、10000㍍の日本代表で入賞者なんですけど、中央大学OBです。その方の記録を破ったので、その先生から中央大学はどうかとお誘いが来ました。あと当時3000メートル障害で日本記録を出していた方、布上正之さんにも憧れていました。中央大学出身で既に実業団のナンバーワンだった方です。どうせやるならこのぐらいの記録にチャレンジしたくて、ひょっとしたら一緒に走れるんじゃないかと。いろんな大学からのスカウトがあったのですが、中央大学以外に行くつもりはなくて、高校2年くらいから早くに決めました。OBの方の活躍が、実業団なり卒業してからの活躍が光ったものがあったので」

▲学生時代を懐かしむように語る横溝氏

 

2年次の5区でブレーキ できれば死にたいとも思った

――中大が6連覇してた当時の雰囲気

「中央大学は昔は決して強かったわけではなくて、他の種目をやっていて長い距離を走れるような方が箱根をやっていました。」

――6連覇した時の気持ち

「非常に大胆だなというか、当時の監督の発想が豊かで。当時の中央大学には高校時代に活躍した選手が同時に入学してるんです。10区間中5人が1年生で走って箱根優勝しているんですけど、監督は1年生の力からすれば当然箱根は走れると判断したんですね。それで私は1年生のとき3区を走ったんです。当時ローマオリンピックに出場した方や、早稲田で日本記録を持っていた方が、エースとして3区を走っていたんです。そこで私は1秒負けて区間2位ということで箱根デビューしました。

2年生の時は5区でしたね。当時は今より3キロ以上長いんです。もともと私の走りは山や坂に適した走りではなかった。にもかかわらず、距離が長くて難コースなので同僚がみんな避けるんです。5区だけは走りたくないと。私は馬鹿正直に走ったもんですから、もっと速い人はいたんですけど選ばれたんです。で、この区間でブレーキをしているんです。オーバーペースっていうのもあったんですが、3000メートル障害で故障して練習があまりできなかったこともあって。それで走れなくなって、途中から歩いたんです雪の中で。区間7位だったかな。あまり良くない成績でした。散々なレースをしました。私の競技生活の中で最も苦い思い出です。先輩からはすごい罵声を浴びて、『中央大学はもう優勝ないね』と。そこからゴールまで巻き返して結局優勝したのでホッとしましたけど。その時ばかりは競技を続けたくない、できれば死にたいと思いました。非常に辛い経験が5区です。

三年になると山下り、6区でした。本来ならば山登りをやる選手が山下りをやることはないんですが、みんなそこを避けるんです。距離も今より長くて難コースで走りたくないっていうので。そこで私が走って区間新記録を出しました。この時も優勝しているんですね」

――4年生の時も優勝されていますよね

「はい。2年の時に山登りをやって失敗したのが、自分の箱根の中で最も印象深いことです。おそらく生涯忘れることのないくらい辛い出来事だったので」

 

とにかくプレッシャーが大きかった

――普段の学生生活はどのように過ごされてましたか

「今のように地下鉄もない頃ですから、寮が練馬にあって神田で練習していたので1時間近く通っていたというのと、1、2年生の頃は上級生の面倒を見なくちゃいけないんです。上級生の洗濯から先輩のマッサージまでやるので寝かせてもらえないんです。寝るのも12時半過ぎとか。プレッシャーでしたね(笑)」

――1、2年のころは陸上に打ち込んだ2年間ということですか

「そうですね。外出もできませんし、競技一筋。勉強は、上級生の手前で学校へ行こうとすると、寮から出られないっていう時代もありましたね」

 

オリンピックを目指し、卒業後はドイツへ留学

――実業団でも競技を続けた理由は

「日本陸上記録連盟が、1964年の東京オリンピックに向けて、ドイツのオリンピック選手たくさん出した方と契約したんです。オリンピックを目指して合宿に参加したんですけど、そこで色々教えてもらって。その後その方が帰国されちゃったんですけど、まだ教わりたい、物足りないなと思って、就職先のリッカーミシンに内定しました。そこでオリンピックを目指してドイツに留学したいと話をしたら、費用をバックアップしてくれるというので、卒業と同時に留学しました。オリンピックが始まる2年半くらい。苦労したのは、受け入れの場所がなかなかなくてキャンピングカーで生活したことですね。たまらないですよね狭くて」

――解説者時代を振り返って

「当時中大のOBであり、NHKの実況アナウンサーだった北出清五郎さんに声を掛けられてスタートしました。喋るのが得意ではなかったので、最初は失敗の連続でしたね。その中で事前の綿密な取材の重要性に気づき、各大学への取材を通じて下準備をしっかりと行いました。結果としてNHKで10年間、日本テレビで15年間やらせていただくことができました」

 

人並みのことをやっても結果は出ない
「少しでも人より努力をすること」を忘れないで

――東京国際大学駅伝部の総監督に就任

「理事長のお誘いがあって引き受けました。地道な挨拶回りや選手の確保など、そういった下積みが本戦出場やシードという結果につながったと思います。部の歴史が浅いこともあって一言では言い表せないくらい、非常に苦労しましたね。少しずつですが、最終的な目標は当然優勝です。そして、優秀な選手を育てていつか日の丸を付けさせたいという夢もあります」

――中大生へ向けてメッセージ

「人並みのことをやっていても結果は出ません。並外れた結果を出すには『少しでも人より努力すること』を忘れないで欲しいですね。陸上に限らず地道に努力を重ねてください。いつも陰ながら応援しています」

絶え間ない努力で結果を貪欲に追い求める、陸上に対して熱意のある方でした。お忙しい中取材にご協力いただきありがとうございました。

記事・写真:「中大スポーツ」新聞部