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【追悼コラム】「後輩たちには気負わず思いっきり走って欲しい」23年務めた名物コラム『碓井の目』 歴代担当記者が語る碓井氏の素顔


 中大陸上競技部OB、毎年の箱根駅伝テレビ解説でもおなじみだった碓井哲雄さんが11日朝、亡くなった。79歳だった。93年の本紙創刊以来、多くの紙面でご登場していただいた碓井さんを偲びつつ、本紙歴代担当記者たちの証言をもとに、碓井さんとの思い出を振り返る。(中大スポーツ新聞部29期編集長・山田裕太)


碓井さんは天国で今、何を思っているだろう。「俺が生きてる間に、中大の(箱根)優勝が見れるときは来るかな(笑い)」。昨日の訃報が届いた際に、ふと2年前に取材させていただいたときの言葉を思い出した。孫ほど年の離れた若輩者の私にも、敬語で丁寧な言葉遣いで、時にジョークを飛ばして場の雰囲気を和ましてくださるなど、いつも柔和な笑顔で接してくださる優しい〝おじいちゃん〟だった。

本紙と碓井さんの関係性は20年以上前までさかのぼる。本紙に碓井さんが初登場したのは94年1月発行の第2号。当時は陸上競技部のコーチだった。その後98年10月発行の第29号にて、箱根六連覇時代の歴史を振り返る企画で再登場。以来翌号の99年箱根駅伝特集号(箱根号)から今年発行の箱根号(第162号)に至るまで、実に23年間に渡り箱根分析コラム「碓井の目」の編集委員を務めてくださった。

「碓井の目」の連載がスタートした99年に私が生まれたことを思うと、歴史の重みを感じるばかりだ。

▲本紙第29号(98年10月31日発行)に掲載された碓井さん 箱根六連覇はいまだに破られていない

▲本紙第30号(99年1月2日発行)に掲載された初の「碓井の目」

本紙部員にとっても、箱根号の製作前に行う碓井さんへの取材は冬の風物詩となっていた。昨年はコロナ禍の影響で電話取材となったが、直近3年間は箱根直前の11月に行われる学連1万メートル記録挑戦会で取材させていただいた。「中スポですが、今年も取材させていただいてもよろしいでしょうか」と伺うと、「お、今年もか(笑い)。よろしく頼むよ」。人けの少ない場所へ移動し、独自の視点で熱く語ってくださった時間は、濃密なものだった。

碓井さんの長年の経験と勘による予想は、高確率で当たっていた。「今年は留学生が1区に来たら面白い、来るんじゃないかな」と言えば、95回大会では22年ぶりに1区留学生出走。「中山・堀尾で並べてガツンと行けば、序盤でいい流れに乗れるんじゃないか」と言えば、2区でのトップ争い実現などなど。こうしたこれまでの独自予想を挙げれば枚挙にいとまがなく、ここでは到底書き尽くすことはできない。

▲今年の箱根号(第162号)での「碓井の目」 言葉の力強さは健在だった

歴代の本紙OB・現役担当記者からの証言を集めると、碓井さんの変わらぬ素顔が見て取れた。「優しい中に厳しくも愛の溢れるコメントをいただいた」「最初から最後まで声のトーンが同じで、活気にあふれていた」「中大愛があってもひいきせず、辛口なことも言ってくださる姿勢が大好きでした」「知識の乏しい学生に対しても、笑顔でお話してくださるとても気さくな方でした」。

私も2度取材をさせていただいたが、こんな一幕があった。当初、取材予定時間は10分ほどであったが、取材が進むにつれて碓井さんも熱い想いが溢れ、予定時間を大幅に超過。ともに1時間以上も熱くお話をしてくださった。また、時代に即したお考えを持ち、陸上界の未来についても想いを馳せていらっしゃった。この優しさと情熱は、碓井さんが多くの人から愛されるゆえんだろう。

生前、碓井さんに母校の後輩へのエールを問うと一言。「後輩たちには気負わず思いっきり走って欲しい」。天国からも陸上界、そして母校中大へエールを送ってくださっているに違いない。長年に渡り本紙への取材を快く引き受けて下さり、本当にありがとうございました。中大スポーツ関係者一同、心よりご冥福をお祈りいたします。

▲一昨年の箱根駅伝予選会で後輩の堀尾謙介氏(トヨタ自動車)(一番右)とともにテレビ解説を務める碓井さん(左から2番目)

◆碓井哲雄(うすい・てつお) 昭和41年経済学部卒 在学中は3度箱根駅伝に出場し六連覇に貢献。4年次には2区2位の好成績を収めた。卒業後は中大陸上競技部コーチ、本田技研監督等を経て、神奈川工科大陸上競技部の監督を務め、箱根駅伝の解説者としても活躍していた。