全国高等学校駅伝競走大会(通称:都大路)に通算25回の出場を果たしており、東京の陸上競技部の中でも強豪校として名高い國學院大學久我山高校(以下:久我山)。現在中大陸上競技部長距離では浦田優斗(経4)、伊東夢翔(経3)、長嶋翔大(総3)、鈴木耕太郎(法2)と計4名の久我山出身の選手とマネージャーが在籍している。今回はその4名にインタビュー。高校時代の話や、お互いの印象、今後の目標についても話を伺った。【全3回】(取材は5月25日に行いました)
前編は互いの第一印象や恩師とのエピソードなど、高校時代を中心にお届けします!
(聞き手・構成:大畠栞里、大日方惠和(=久我山卒))
▲色紙を持って映る4人。左から伊東、鈴木、浦田、長嶋
―いつ陸上競技を始めましたか?
浦田
「小学校で陸上クラブに小1の終わりぐらいに入って、その時は遊び感覚で、楽しそうだからやってみようかなと思って入ったのがきっかけで、競技として陸上をやろうと明確に思った日はなくて、遊び感覚でやってたら、 だんだん速くなってきて、じゃあ続けようかなみたいな。公式に大会に出るようになったのは、小学校5、6年生の時です。中学以降は陸上クラブ入ってたから、陸上以外の選択肢は自分の中になかったので、当然のように続けようかなって感じで、中学、高校、気づいたら大学もやっていました」
伊東
「自分も同じで、小1の終わりから小2ぐらいに地元の陸上クラブチームに入って、そこから僕も特に競技として続けようとか思ったことはないんですけど、中学校も陸上部入って、高校も陸上部入って、大学も続けてみたいな。特に競技として続けるよっていうよりかは、最初は小学校の持久走大会で1位になれたらいいなぐらいの動機で始めて、でも5年生の時に初めてロードレースで優勝した時はすごいうれしかったのを今でも覚えてるので、あの辺から陸上をちゃんと真面目にやりだしたっていうか、自分の中で陸上が軸になってた感じがします」
鈴木
「小学校の時にはサッカーやってたんですけど、あまりにも下手くそすぎて。何してもダメで、でも走ることだけできるみたいな。ベンチでも何もできなくて、走り込みだけやってたら、人より走るのが得意になって、サッカーの体力作りみたいな感じで出たロードレース大会で優勝して、中学校の部活で陸上選んで始めたって感じです」
長嶋
「自分は小学校では陸上をしていなくて、テニスとかサッカーをやってて、中学入る時にサッカーとかテニスはどっちもボール拾いとか、走らされるメニューから始まるから、結局走らされるくらいなら陸上やろうかなって。そっちをメインにした方がいいなって思って、あと友達に誘われたのもあって陸上を始めて、最初は幅跳びとか高跳びとか短距離を楽しくやってて、冬季練習で1000メートルトライアルを全員でやった時に走れちゃって、気づいたら長距離に連行されたって感じです」
▲長距離の適正を見込まれてスカウトされた長嶋
―なぜ久我山を選んだのですか?
浦田
「久我山って朝練が無くて、朝練が無いのに強くてわりと都大路にも出てるので、それだけ効率がいいというか、その指導者(の教え方)がうまいのかなっていう理由で選びました」
伊東
「自分も埼玉出身で、都大路には出たいっていうのが一番にあったたのと、久我山は勉強も陸上もどっちもできるかなっていうので久我山を選びました」
鈴木
「僕は中学3年生の時に見てた高校3年生の久我山の先輩たちがすごいかっこよくて、あとは伊東大翔(令6卒、現愛三工業)さんっていう方がいらっしゃったんですけど、すごい憧れで、もうそこで直感で久我山がいいなって思って、見学行って入学した時にはもう入れ替わりで、大翔さんと入れ替わりだったので、自分が頑張ろうと思ったら、すごい似てる人いるなみたいになって、それが弟(夢翔)さんでした」
伊東
「この話毎回するけど、耕太郎が中3で俺が高1の時に都道府県合宿で会ってるから」
鈴木
「いやもう大翔さんしか見てなくて…」
長嶋
「もう眼中にないじゃん(笑)」
鈴木
「その先輩方がすごいかっこよくて、僕もこういうかっこいい人になりたいっていう単純な理由です」
長嶋
「自分は神奈川出身で、活躍しだしたタイミングが遅くて、中学2年後半から3年ぐらいで。最初は陸上するか勉強するか、どっちかに振ろうと思ってて、陸上の強豪校行かないんだったら、もう全く陸上はしないで勉強とか違うことしようと思ってました。そのとき神奈川県であんまり陸上長距離が強い学校がなくて、神奈川県内でっていう選択肢が自分の中になかった時に、東京で通える範囲で強いってなったら一番最初に出てきたのが久我山で、有坂さん(※)に声をかけていただいて、悩んだけど、やるんだったら高いレベルでやりたいなという気持ちがあったので、久我山が一番いいかなと」
※有坂さん・・・有坂好司氏。元久我山陸上競技部監督。約30年間指導者として携わり、都大路東京勢入賞にも貢献した。2021年1月、肝臓がんにより58歳の若さで永眠。
―お互いの第一印象はいかがでしたか?
浦田→伊東
「夢翔は埼玉で一緒だったので、中学の頃から知ってて、そんなに印象はないかもしれないですけど、そんな変なやつだなとも思わなかったし。 良い印象も悪い印象もあんまりなかったですね」
浦田→鈴木
「こんなに変ではなかったです、当時は」
伊東
「もっと大人しかったですよ」
浦田
「そう、中大来たら変になってました」
鈴木
「まぁ自覚ないですけど」
伊東→浦田
「僕はさっき浦田先輩が言ってたように、浦田先輩は中学の時から知ってたので、なんか速い人だなぐらいの感じで、あと優しいっていうのは知ってたので、いつも帰りとか結構一緒に帰ってたんですけど、入学したばっかりの時から一緒に帰ろうよって言ってくれて、優しかったなっていう印象です。本当に家までがほぼ最後2駅まで一緒なので、そこまでずっと一緒に帰ってるみたいなのが結構主流というか、毎日の帰り道でした」
伊東→鈴木
「1個下なんですけど、全中(全日本中学校陸上競技選手権大会)入賞して入学してきたので、結構力があるというか、久我山入る人で、全中入賞して入ってくる人って少ないので、初めてやったタイムトライアルもほぼ僕らと同じぐらいで走れてたので、1個下だけど、ライバルじゃないですけど、負けたくないなっていう気持ちが強かったですね。あとは浦田先輩と同じで、ここまで変なやつではなかったです。最初はちゃんとしてました」
伊東→長嶋
「僕が埼玉1人だったので、神奈川出身が多かったんですよ、僕の代って。だからめっちゃ緊張してて。神奈川で固まってて、仲良くなれるかなみたいな感じで結構緊張してたんですけど、わりとみんな優しくて、長嶋も優しかったなっていう印象です」
浦田→長嶋
「うーん、そんな印象ない。あんまり覚えてないんですよ」
伊東
「あと長嶋は提出書類の時に3人ずつ座ってたんですけど、 志願書の字がめちゃくちゃ綺麗だったのは覚えてます。こいつやっぱ真面目そうなやつだなって思ったのは覚えてます」
浦田
「(長嶋との)最初は、出会いは覚えてない。3年目とか結構ふざけてた」
鈴木→浦田
「僕は、浦田先輩は、部活自体が井の頭公園まで行って、そこで何周とかして帰ってきてっていう練習だったんですけど、そこにすら行かずに戻ってきて、すごいなって。練習を全然しないっていうのを聞いて、そういう3年生もいるんだなっていうのと、あと日本史のテストで、(100点満点中)8点…とか」
浦田
「おい、ヤバい(笑)」
鈴木
「どんだけテスト難しいんだ…ってなって、でもそういう先輩もいるから大丈夫みたいなことを聞きました。 勉強頑張れみたいに言われて」
鈴木→伊東
「夢翔先輩はさっき言ったみたいに、僕も1個上で意識するってなったら、夢翔先輩が一番最初に出てくるので、練習から結構ガンガン行ってやろうっていう感じだったので、印象はライバルみたいな、ちょっと上からでしたね(笑)」
鈴木→長嶋
「ちょっと最初怖かったです、正直」
浦田,伊東,長嶋
「えぇ?」
鈴木
「今国学院にいる植木さん、植木来時っていう人がいるんですけど、その人と結構ツートップ(で怖い)みたいな」
長嶋
「よく一緒にいたからかな?」
鈴木
「その人(植木)は結構雰囲気があって。その隣に(長嶋が)ずっといてこういう(真剣そうな)顔してるから、怖い人なのかなと思って」
長嶋
「そんなに来時といたかな?」
伊東
「まああとは長嶋はそういう立場だったからね、新入生指導的な」
長嶋
「確かに、言ってたもんね」
鈴木
「雰囲気がありましたっていうのは僕の第一印象です」
長嶋→浦田
「僕は浦田先輩は、俺もあんまり…でも、それこそ僕の1個上の先輩の代も神奈川出身の方が結構いて、僕と同じ中学校とか、近くの先輩がいて、その先輩たちとは仲良くしてもらってて。で、その先輩たちとよく遊んでる人、みたいな。そんな感じでした」
長嶋→伊東
「めっちゃ覚えてるのは、 入学して多分春合宿の前に1回、部室で1年生が全員集まった時があって、その時に神奈川組で話してて、そこにすごい勢いで入ってきて。おぉすげぇって、めっちゃしゃべるやつだなみたいな。合宿とか行ってもめっちゃしゃべるし、でも強い。うちの学園の中でも突出して強いなっていう印象で」
長嶋→鈴木
「全中入賞してたりとか、練習見学来てるタイミングですごい動きするやついるなみたいに思って、当時はもっと可愛らしい顔をしてて、全然細くて芋っぽいやつ。可愛いやつ来たなみたいな、素直なのかな、みたいな感じの第一印象。あと足長いなっていう感じ」
―当時部内、または他校にライバルはいましたか?
浦田
「同期はみんな結構ライバルっていうか、僕らの代は実力が拮抗してたんで。(推薦組だけではなく)一般生も強かったですし。今法政大の小泉(樹)とか、明治大の新井(晴文)とか、僕の中では同期全員ライバルです」
―今でもライバルですか?
浦田
「そうですね。チェックはしてます。同じレースとかだったらやる気出ますね。この間は1500m出たんですけど、新井と同じ組で、僕1着で彼が2着だったんですけど、めちゃめちゃ悔しがってました」
伊東
「僕はどっちかっていうと1個上を結構ライバル視してたっていうか、自分の代の中だったら自分は一番力があったので、じゃあ次行っとこうかって言ったら、上の代に勝つことが目標になってたので。1個上の、特に僕は立教大の中西(洸貴)さんを1番ライバル視してました。僕が3年の時は耕太郎がすごい力つけてきてたので、 負けるわけにはいかないなっていう風に思いながらもやってました。特別ライバル視っていうよりかは、自分がチームで1番速くありたかったって感じですね。今でもライバル視してますし、それこそ浦田先輩なんかは高校の時は正直僕の方が速かった」
浦田
「えぇ!?」
伊東
「いや速かったでしょ、さすがに」
浦田
「いやいやいや」
伊東
「速かったと自分では思ってるんですけど、でも大学入ってから浦田先輩めちゃくちゃ力つけてるので。 もう1回勝ちたいなっていう風に思ってます」
鈴木
「僕はもうライバルって話になったら1人しか思いつかないんですけど、今東洋大にいる田中純ってやつがいて、中学から僕がタイム更新したらそいつが上(より速いタイム)を行って、また僕が上を行って、みたいな。本当にライバルって感じで。高校の時も違う高校だけどずっと競り合うみたいな感じで、もう一生ライバルみたいな感じ。同期は星野(泰地)っていう法政大に行ったやつで、練習を全然してなくて。歩いてんのか走ってんのかわかんないくらいでジョグするみたいなやつがいるんですけど、でも本番になるともう人が変わったように(速く)走るんです」
―今でも大会で会ってる?
鈴木
「全然会うし、飯にも行ってる」
―指導者に言われて覚えている言葉はありますか?
長嶋
「これは全員そろうかもしれない!」
浦田
「待って待って待って待って」
伊東
「うわぁ…」
長嶋
「これは浦田先輩もいたし、お前(耕太郎)もいた」
鈴木
「待ってヤバい」
長嶋
「これはそろうわ、ここ(夢翔と)は絶対そろう!」
伊東
「多分ね。でも分かんない、ヤバい、2個出てきた!」
長嶋
「俺もう1個しかないよ」
浦田
「え…いつ言ってた?」
伊東
「いや俺も1個しかないわ」
長嶋
「日体後とか?日体と都行きの後じゃない?」
伊東
「そう!だし、あれ1回、2回とかじゃなくない?その言葉言ってたの」
長嶋
「うん、でも印象に残ってるのはそこら辺」
鈴木
「うわ…ヤバい」
長嶋
「印象に残ってるのは、都行きと都大路の間の日体でみんな記録良くて、その時かな?」
伊東
「え、こいつ(耕太郎)いた?」
長嶋
「いやいたと思う」
浦田
「ないないない」
長嶋
「いや先輩はありますよ!」
浦田
「俺は、『中西にバツをつける!』」
(一同笑い)
▲浦田の思わぬ回答に爆笑する一同
伊東
「俺も(2個目)それ思いました!」
長嶋
「土手でね、言われたよね」
浦田
「10人中9人言って、10人目、『中西、お前にバツをつけた』って」
伊東
「いや、でもここ(長嶋と)はそろいますよ」
長嶋
「中西にバツをつけたときは俺たちいた?」
伊東
「いやいないよ、だってこの話も浦田先輩たちから聞いたし、俺たちが2年の都行きの時に『今年は中西にバツをつけなかった!』って言われたから」
長嶋
「そっか、それで聞いたんだ」
伊東
「でもホントにそろうと思うよ」
浦田
「え…分かんない、もういいよ」
伊東,長嶋
「「せーの、『一寸先は闇』!!」」
浦田
「あー!言ってた!言ってたわ!」
―それは常に言ってましたか?
伊東
「常にっていうか、なんかことあるごとに言ってた。駅伝シーズンなると3、4回出てくる」
長嶋
「うん。いい練習ができた時とか、記録会の結果がみんな良かった時とかに、最後のミーティングとかでよくね」
伊東
「『一寸先は闇だからちゃんと足元見て』って」
浦田
「言ってた、それ言ってた」
―天狗にならないでってことですか?
長嶋
「そうだね」
伊東
「俺と長嶋はそろいましたけど、2人他にあれば」
浦田
「『中西にバツをつけた』でしょ」
伊東
「それは浦田先輩にかけた言葉じゃないんで」
―それはどういうエピソードですか?
浦田
「都行きのメンバー発表で、9人言って、『あと中西、富田、浦田で残り1枠が迷った』みたいに仰ってちょっと溜めてから、『中西には大きなバツをつけた』」
(一同笑い)
浦田
「あ、そっち!?ってなって、その次富田って言われて、あ、これ俺なんだってなりました。だから中西が一番かわいそう」
▲最後の1枠を勝ち取った浦田
―葛西先生(当時の顧問)からは盆栽の話をされていたと思いますが?
伊東
「なんだっけ、なんか俯瞰して見ろっていう意味だった気がする。盆栽作る時は、下から下から切ってくんだけど、1回1回上から見て、木がちゃんと綺麗になってるから見てるみたいな」
鈴木
「そうだそうだ、そんな話だった」
伊東
「お前1個も覚えてないな!(笑)」
―有坂さんは厳しかったですか?
伊東
「他校とか強豪校に比べればそんな厳しくなかったかな。優しかったですよね。うんうん、怒ることもあんまりなかった」
―ミーティングもスゴかったですよね、中央階段にみんな集めて
伊東
「でもあれも週に1回、水曜日か木曜日にやってました」
浦田
「え、あれ週に1回?」
伊東
「そうでしたよ」
浦田
「俺毎日飯かきこんでた気がする」
伊東
「それは先輩が飯食うの遅いだけですよ(笑)」
―高校時代の部活と普段の生活の両立は大変でしたすか?
浦田
「トータルっていうか、高校生活全部ひっくるめたら、 今より大変だったなとは思います。通学に時間かかってたので。あとポイント練習の日も1年生が7限終わるのを待ってから和田堀公園まで行って練習するっていうん感じだったんで、スケジュールというか時間的には結構きつかったなっていうのはあります。でも3年間トータルで振り返ったら、もう楽しかったなっていう印象の方がずっと強くて、結構チーム全体で仲いいのが強みというか、久我山の特徴だと思うので、部活練習もそうですし、それ以外でも基本もう部活のメンバーとしか一緒にいないような感じなんで、楽しかったです」
―1年生が来るまでの間は何をしていましたか?
伊東
「ゆっくりしたり、寝たりして」
浦田
「IPPONグランプリしてたね(笑)」
伊東
「自分も陸上と一般生活は基本的に楽しかった思い出しかなくて、陸上は本当にチームに恵まれて3年間全部都大路出れたっていうのは本当に自分1人の力じゃ無理なんで、久我山入ってよかったなっていうか、久我山じゃなかったらどうなってたか分からないなと思いました。タイムも中学の時から比べるとだいぶ高校で伸びたので、久我山を選んで陸上と一般生活は本当に楽しかったけど、勉強がやっぱキツかったのを結構覚えてて、授業1回寝たらどこまで進んでるかわかんなくて、ノート取らないと全く分からないので、勉強は2年に上がる頃には結構諦めてたんですけど、それでもやっぱり赤点取ったりすると部活出れないみたいに言われてたので、赤点は絶対取んないようにしてみたいな感じで、勉強はだいぶキツかったのは覚えてます。テスト期間とかはそれこそ(深夜)2時とかぐらいまで勉強したりしてたんで、嫌でしたね」
鈴木
「なるほど…」
伊東
「お前赤点取って部活出れてねぇんだからさ、キャプテンなのに(笑)。浦田先輩はコロナ禍だったので救われてました」
鈴木
「3年間2人が言ってたようにすごい楽しくて、また戻りたいかって言われたら、戻ってみんなで走りたいなっていうのが1番あって、1つ言うなら自分の3年目で、インターハイも都大路も“なぜか”行けなかったので、その悔いを中大で晴らしたいなっていうのは1個あったのと、もう1つが自分バカなんで、有坂さんに指導してほしくて久我山に行って、でも有坂さんはずっと帰ってこなくなっちゃって、それは今でも正直信じられなくて、混沌としたまま3年間過ごして、ようやく大学で素晴らしい指導者の方々に指導してもらってるんですけど、気持ちの整理があんまついてないので、大学の4年間でうまくコミュニケーションじゃないですけど、貢献できなかったんで、大学ではうまくやりたいなって思います」
▲恩師亡きあとの活動を語る鈴木
長嶋
「自分もトータルで今振り返れば久我山で良かったなっていうのはすごい思ってて。やってる時は確かに全く結果出ずに最初から本当に競技面だけで言えば苦しいことしたし、キツかったんですけど、それでも久我山辞めたいって思ったことは1回もなくて、 もちろん勉強もあって、陸上もっていう感じで。確かにキツいはキツかったけど、やっぱ周りのメンバーも上下関係があるけど、多分他校に比べればそんなになくて3学年なら3学年縦の上下関係なくやれてたんで、その雰囲気がすごいやりやすかったし、楽しかったので良かったし、競技面だけで学べないことじゃないですけど、普通にそれ以外の面も久我山だからこそ学べて、今こういったマネージャーの業務に活かせてるのでその部分をすごい感じるので。選んでよかったなっていうのは心から思ってますし、全く後悔なく楽しかったなっていう思い出は、今振り返ればありますね」
―他の方は上下関係は感じてましたか?
浦田
「全然でしょ?」
長嶋
「浦田先輩の代からより無くなりましたよ。確か。俺たちが1年の頃の伊東先輩とかがいた時は厳しかったですけど」
伊東
「確かにこの学年が揃ってる時は1番無かった」
鈴木
「うん。優しかったですね。単純にゆるいとかじゃなくて」
伊東
「理不尽はない。全員応援できるみたいな感じでしょ。駅伝とかで誰が走ってもなんでこいつなの?みたいなのはあんまりなかったイメージ」
―久我山で一番印象に残ってるレースはありますか?
浦田
「2つあって、1つは3年目に出たインターハイの代わりの大会みたいなのが広島であって、そこで自分が思ってたよりもずっと速いタイムで走れちゃって、そういうレースが、大学入ってからも1年に1回ぐらい毎年あるんですけど、そういうレースが1本あるとひと皮剥けるというか、自分のレベルが1個上がってるんだなっていうことが実感できるので、その参照レースで3年目の最後に自信がついたというか、自分の力を信じられるようになったのがそのレースで。
もう1つが1週間後の都行きで、自分2区3キロだけだったんですけど、走り的には良くも悪くも、仕事はしたかなぐらいの感じでだったんですけど、自分たちの代で都大路に結果的に行けて良かったんですけど、自分たちの代最後で、1年目都大路を逃したっていう経験をしてたので、精神的に1番緊張したというか、 そのプレッシャーを感じて、でもそれを乗り越えた達成感というか、嬉しさを感じた、安心できたレースがその3年目の都行きでした。当たり前というか、下馬評ももちろんうちが1番に通るだろうって思ってる人が1番多かったと思いますし、通って当たり前、当たり前の結果で走るっていうのも難しさじゃないですけど、当たり前なことをする走りをするプレッシャーを1番感じたレースでしたね」
伊東
「僕も2つあって、ひとつ目が2年生の時の都大路で1区任してもらったんですけど、全然走れなくて。しかも直前の練習だとだいぶ走れてたんで、 そこそこ行けるかなって思ったんですけど、本当に全然ダメで。 結果論で言うとあのレースが有坂さんに見てもらった最後のレースだったんで、本当にやり直せるなら今でもやり直したいっていう気持ちが強いぐらい、あのレースは後悔してて、しかも3年生の先輩たちのラストのレースで、2年生で1区任してもらったのに全然走れなかったっていうので、すごい悔しかったなって。3年目の都大路もそんなに思ったような走りはできなかったけど、なんかそれでも2年の時の都大路は人生で1番悔しかったレースかなって思います。
もう1個は、3年の11月の2、3週目にあった日体で、そこで東京都の高校記録更新できたんですけど、それはさっきのレースとは逆で、いい意味で嬉しかったっていうか、みんな全然13分が出る予想してくれなくて、 僕がいないところでみんな夢翔先輩何分で走るかなみたいな話してたらしくて、誰も13分台の予想してなかったらしくて。 でも後から聞いた話だと同期はいや出すんじゃね。みたいな話してたらしいので、やっぱ同期はわかってるなっていうか、自分も出るかなっていう風に思ったんで、そんな周りの声は気にしなかったんですけど、あのレースは結構有坂さんとのその2年目の高校駅伝が終わった時に、来年5000mの東京都新も出すしみたいな話はしてたんで、そこで1つ恩返しというか、約束を達成できたのは本当に嬉しかったなっていうレースでした」
▲東京都及び母校の5000m最高記録を樹立した伊東
鈴木
「同じ時期に、夢翔先輩の1、2週間後に日体で13分台、自分が出したレースが1番高校で印象に残ってて。その年に有坂さんが亡くなっちゃって。ワケ分かんないまま練習を続けて。夢翔先輩とワンツーマンなんですよね?」
伊東
「イヤだったけどね」
鈴木
「2人でずっと練習してて、たまたま出る記録会は違くて、先輩が13分出して、13分以内は全然目標じゃなかったんだけど、先輩が出したからいけるみたいな自信が湧いてきて、走ったら13分ぐらい出せて。なんか ラスト600mぐらいで、とんでもない頭痛に襲われて、感じたことない感覚に入って、今でも覚えてるぐらい衝撃的で、あれが1番印象に残ってます。それこそ有坂さんに恩返しじゃないですけど」
―何か終わったあと2人で会話はしましたか?
伊東
「でも終わったあと時期が時期だったから、都大路頑張ろうぜぐらいの話しかしなかったよね?」
鈴木
「久我山でその13分台が2人いるっていうのが史上初みたいな。めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えてます」
長嶋
「自分はさっき夢翔が言ってた2年の時の都大路、自分は別に走ってないんですけど、夢翔の付き添いしてて、多分コロナ禍ギリ明けたぐらいの感じで、結構人も限られていた中で、付き添いっていう形で連れて行ってもらってて、有坂さんの近くで色々することも多くて、その時も別に病気の詳しいことは言われてなかったけど、そういう状態だっていうことはわかってた上で付いて行って、 レースが終わった後のミーティングで涙ながらに謝られて、自分の脳裏に焼きついててすごい印象に残ってて、 それが最後に会ったぐらいじゃないかなと思う。有坂さんとの都大路も最後だったと思うんで、 最後の言葉じゃないけど、すごい印象に残ってて。
もうひとつが3年の11月ぐらいの東海で、自分も最後に東海で3000m走って、次の週に日体で5000m走って、そこでもう引退というか競技者としてのレースがそこで最後だったっていう2本のところで、3000mをレベルはあれだけど、自分の中でやっと少し納得して、最後気持ちよく走れて、学生コーチだった高橋さんとすごいハグして喜んで、それはすごい印象に残ってて、レースでいい思いしたのそれぐらいかなっていうぐらい良くて。次の週の5000mは多分夢翔が13分を出した時の日体で最後走るってなった時には同期が何人か応援しに来てくれてて、 監督も高橋さん(当時の学生コーチ)も来てくれてっていう中で走れて、最後まできつかったけど、笑顔で走れて、キツかったけどキツくないみたいな自分の中で1番楽しかったレースだなって、最後いい思いでレースを終えられたので、自分の終わり方としては悪くなかったかなっていう。すごい納得してたかはわかんないですけど、あるべき状態の中ではベストの終わり方ができたのかなって個人的に思ってる。最後のレースはやっぱり印象に残ってます」